ブックレビュー

2011年2月28日 (月)

せきれい荘のタマル

Tamaru_2

 毎年2月ころに、ファンノベ大賞の仲間が集って新年会をやるが、この本はその席で僕の新作と物々交換してゲットしたもの。もちろん直筆サイン本。実はどっちも大学サークルを舞台にした青春物で、表紙絵さえ同じスカイエマさんで被ったという、「やあ、奇遇だねえ!」な巡り合わせだった。登場人物の数と面積とで、表紙勝負は僕の勝ちだったのだが……。

 静岡から東京の大学に進学し、映画研究部に入部した主人公・石黒寿史が、部の先輩であるタマルこと田丸大介と、下宿で偶然隣同士になるのが悲喜劇の始まり。この先輩、名前こそタマルだが、はた迷惑な思いつきは押し通すわ、何にでも他人を巻き込むわのタマラン男。その突飛で強引な行動に振り回されて寿史は疲労困憊する。ついに寿史が密かに好意を寄せる同郷ののりたまこと法村珠美にも近づき始めて……。

 新潟弁を連発しながら暴走機関車のごとく行動しまくるタマルの性格が実に魅力的だ。人の気持ちは決して「おもんぱかれない」けれど、根は100%、いや150%の善人。人に手を差し伸べたい気持ちが超高速で空転しているようなお節介焼きなのだ。のりたまへの猛アタックだって、寿史の恋心を「おもんぱかれなかった」だけのことで、決して悪気からではない(迷惑なのは同じだろうが)。

 イマドキの若者は空気を読むのは上手く、他人の領分にずかずか上がり込まないし、大言壮語もしない、身の丈に合った生活を楽しもうとする。よく言えば洗練されているが、悪く言えば蛸壺に入っており、他人と深い関係を結ぶのが苦手だし、困難な問題を乗り越えるパワーに欠ける。そうしたありがちな若者とは対極的なタマルのなりふり構わぬ行動で、映研という小社会の冷え冷えした安定は突き崩され、新しい可能性が芽吹き、泥濘から抜け出せる学生も出る。読み進むうちにタマルのタマラナサが愛嬌と映ってくるから不思議。もちろん、小説の中の人物だからと安心しているからなのだが……。

 実際、ラスト近くになると、寿史も含めた幾人もが、タマルの美点、というか、タマル的行動の効用に気づき、一言多くなったり、お節介を焼いてみたりして、ちょっと「タマルめいて」くる。閉塞しきった今の世の中のしがらみをぶち破り、変えていくのは、案外、こういう男なのかも知れないなどと、オッサン目線で考えてしまう。

 カルト教団のオルグの仕組みや、教団関係者らの描写も、簡潔ながら十分な気味悪さを備えている。昔々、上祐君と机を並べて勉強したこともある私が言うのだから間違いない。

 自戒も込めて言うのだが、こういうタッチの作品だと、作者はストーリーを面白くしようと、つまり笑いを取ろうとして、登場人物につい無理な行動をさせやすい。そこから性格の輪郭が壊れ、人物が実在感を失ってただの文章に堕してしまう。ところが越谷さんが書く登場人物は、みな性格の輪郭が強固で、多少物語が散らかったとしても、行動がその輪郭からはみ出さないので、まるで自分の友人知人のように、安心して付き合える。そして別れを惜しむような、しみじみした読後感を生む。おそらくこの才能は、人が好きで、人への気配りがとても細やかな、越谷さん本人の性格とも結びついている。

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2007年7月15日 (日)

古処誠二『ルール』 集英社

最近読んだミステリの中で屈指の一冊。ぼくより十も若い作者にこれほど迫真の軍隊話が書けるとは驚きであるというか、軍事ヲタクの作者がこのあたりまで書込めば迫真性を感じられるほどに実際の戦争体験が風化してきたということだろう。軍隊経験者に読ませてみたらどう思うか聞いてみたい気もする。「戦争体験を語る」ことについて戦争体験者たちがよく言う「体験した者でなければ語れない」という主張は、じつは矛盾している。体験した者でなければ理解できないのであれば、それを他人に語り伝えることなどそもそもできないのであるし、他人に語り伝えられるのであれば、それは体験者でなくてもできるはずなのである。延々と続く極限状態の描写がすさまじく、『Uボート』で息苦しくなるのと同じ意味で腹が減る話だった。ぼくは昔、断食ヲタクだった時期があって、二週間水だけで過ごしたことがあるのだが、その感覚がまざまざと蘇った。体重計ってみようか。

姫山軍曹というサブキャストの博多弁がなんとも効果的に使われているのだけど、この作者は福岡出身なのだろうか。東京言葉以外に、自信をもって使える方言を持っている作家は得だと、つくづく思う。

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吉川幸次郎『元明詩概説 中国詩人選集二集2』 岩波書店

2002年4月20日読了。

この時代は水滸伝、西遊記、金瓶梅など小説の時代で詩は低調かと思っていたのだが、その蒙を啓かれた。今でも割と愛唱されている漢詩のいくつかが、この時代から出ているのだ。「正気の歌」の文天祥とか、元好門、李夢陽ら。一つ収穫があったのは、「正気」というときの「気」、つまりは気功でいう気だが、中国四千年の歴史とともにあるのかと思っていたら、たかだか宋の時代の儒教から出てきたことらしいということ。

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齋藤孝『三色ボールペンで読む日本語』 角川書店

2002年4月20日読了。

角川でぼくを担当してくれている編集者のY君がくれたのである。ちなみにその前には、「入社してはじめて作った本です」と言って日垣隆 なんでも買って野郎日誌をくれた。特製の三色ボールペンがセットになっているんだけど、齋藤さんには悪いが使わなかった。昔から使い慣れてる3Mのテープフラッグによる方式が、二色で色分けするのと等価だというのと、やはり本に線を引くことへの抵抗をぬぐいきれないのだった。とはいえ、主観重要と客観重要を峻別すべきという主張には説得力があり、なにか新方式を考えるべきかもしれない。

著者の齋藤さんは声に出して読みたい日本語がミリオンセラーになったり、ますますご活躍である。新潮学芸賞のときのパーティーでお見かけしたことがあるが、とにかく元気な人。「頭の中まで筋肉」というのは体育会系学生を揶揄する常套句だけど、齋藤さんの場合、脳でもあり筋肉でもある得体の知れない物質Xで全身が作られている感じで、とにかく頭と身体の連携、というかフィードバックが十分に、かつすばやくとれている人なのであった。

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『袁宏道 中国詩人選集二集11』 岩波書店

2002年4月23日読了。

明の万暦年間に活躍した詩人。詩は個性的で、新奇なものを追い求める傾きもあるけれど、たとえば唐末のある種の詩人――李商隠などのようには難解でなく、われわれ現代人でも容易に味わえる。満洲事変当時の中国でブームになったというのもうなづける話。この「中国詩人選集」、「総索引」をのぞいて32冊あるのだが、大昔に衝動買いしていくつか読んだまま、長らく中断していた。昨年夏に再開して、ようやく全巻読了。いちばん先に読んだとおぼしき「杜甫 上」には「1991.1.11」の日付があるから11年かかったことになる。もっとも、後の25冊はトイレの常備本として読んだのだから、トイレといえどもばかにならない。年産(?)40冊程度にはなるかも。

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齋藤孝 『理想の国語教科書』 文藝春秋

2002年4月26日読了。

実際、各社の中学校向け国語教科書の収録作品を見てみると、あまりにも「子どもをなめている」としかいいようがない。乙武くんの文章が悪いとはいわないけれど、もっと子どもに読ませるべき文章は山のようにあるだろう。どうも、本当に子どものためを考えているというよりは、身体障害者とかバリアフリーの問題にも目配り届いてますよという教科書会社のポーズにすぎないのではないか。「文学界」のアンケートで口々に非難の声を上げている大作家の方々にはまあ人ごとだろうが、これから子どもを育てようとする身には深刻な事態。学校教育なんぞに多くを期待しないけれど、頼むから息子の直哉を読書ぎらいにだけはしないでほしい。読み書きと辞書のひき方くらい教えてくれればいい。歴史の授業もいらない。石森章太郎の『マンガ 日本の歴史(全55巻)』でも読ませるから。歴史の時間には、学校が実質的に教えてくれなくなった算数と理科の本でも読んでいなさいと言いたい。

息子の教育のためにいちばんいいのは、ぼくが肝臓でも壊して死ぬか女をつくって出奔するなりして、書庫書斎蔵書の一切を勉強部屋として明け渡すことにちがいない。国語や歴史は言うに及ばず、数学、サイエンス、はては音楽、性教育にいたるまでバッチリOK。

『理想の国語教科書』は小学校高学年の子どもに読ませることを想定して文章を選んでいる。いまはどれも中学校とか高校の教科書に入っているか、どこにも入らなくなってしまった作品ばかりである。難しすぎるのではという意見も当然あるだろうが、ちょっと背伸びをして難しいものに噛みついていくほうが、励みになるし、読書好きの子どもをつくると思う。「国語は体育だ」という著者の意見に賛成。

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